夢の弾丸列車のもたらしたもの

今日6月19日は、丹那トンネルが昭和8年に開通した記念日だという話を聞いて、熱海から三島へ抜け、箱根の山を越えずに、西への道が開けた、その事の意味を考えていた。

漱石の坊ちゃんが松山に赴任が決まった時、同居している清が箱根の向こうですか手前ですかと訊ねたように明治の時代の東京に住む人々にとって、箱根の関は江戸時代から続く、生活圏の果てだった。

丹那トンネルの計画は後藤新平の発案によるものとか。近代都市東京をデザインした彼ならではの先見の明のあるアイデア

日本地図を眺めると、山また山で、盆地や平野で区切られた街ばかり
江戸時代には藩札が発行され地域毎に独自の経済圏が発達し、そこに固有の文化が発達したのも、こんな地理的条件によるのだろう。

トンネルの掘削技術の進化により、東京と名古屋を直線で結んでしまうリニア新幹線が計画されていて、さらにまた、都市と都市との距離を短縮する事が計画されている。

鉄道という移動手段の発達は人々の持つ距離の感覚を次々と変えていく

明治の人にとって箱根が果てだったのに、今は大阪京都は日帰り出張の範囲となってしまった。そのスピード感が地域の文化を失わせてしまうとしたら、それはとても残念なことだと思う。