コミュニケーション能力無くったっていいのよ。惜別の辞

コミュニケーション能力が大切、なんて事が強調されだしたのはいつの頃からだろう。

社会に出て最初の上司が、コミュニケーションなんてテクニックに全く重きを置かない人だった。ふた周りほど年上のその上司は、技術屋としては圧倒的な力量を持っていて、なにせ自分自身が技術開発に夢中になっているような人だったから、部下の僕はほったらかしだった。

質問をしても聞き手の力量に合わせて噛み砕いて話をするなんていう事は全くせずに、思いつくことをガーッと次々しゃべって御終い。こちらは理解するなんてとても無理、とりあえずメモを必死で取って、後から、言われたことを一週間かけて咀嚼して、これって、これこれこういう事ですよね、と確認しにいくと、また、別の話も絡めてガーッとまくし立てられたものだった。
この対応に脱落した同期も多かったけど、根がシツコイというのか、諦めの悪い自分はしつこく食い下がったので、その後も長くお付き合いさせてもらった。

難しい事を分かりやすく伝える、それはかなりの技量がいる。そして、その事を理解してもらいたいと想定している層にどうリーチするか、というテクニックの話になってしまう。たぶん結果として求められているのは聞き手が分かったような気になる、という状態なのだろう。

それは、たぶん多くの書籍を売るとか、多くの人に関心を持ってもらうという事に対しては一定の効果はあると思う。でも、真実というのはそう簡単に分かるものではないし、昨今の哲学ブーム(MITのサンデル教授の授業とか)、なんかを見ていると、人々は「分かり易さ」よりも「なんか良く分からないし、難しそうだけど、心に残るもの」、そんな技術や芸術や哲学を求め始めているんじゃないのかという気がする。

話を戻すと、その元上司が今週、社を離れる事になった。
定年はとっくに過ぎていたものの、どうしても彼の技術が必要という理由で、例外的にその後も留まっていてもらったものの、いつまでも例外扱いもできず、惜しまれて去ることとなった。

目まぐるしく進む技術発展、なんて言葉をマスコミは好んで使うけど、実は、根源的な技術や原理原則は20年経っても変わっていない。20年以上、同じ分野の仕事を彼が続けてこられた事がそれを証明している。そして、その根源的な研究開発分野で業績を上げられる人というのは世界でもわずかしかいないもの。おそらく彼もそのひとりだったはず。

「天才というのは異常な集中力の持ち主のこと」とあるノーベル賞受賞科学者が言っていたが、そばで見ていて、まさに彼はそんな人だった。なにせ、仕事に集中しちゃうと昼飯も夕飯も忘れて、気が付けば外は真っ暗、そんな人だったから。

その元上司が、ついに今週去ってしまう
寂しくはあるが、天才と仕事を共にできたのは幸運だった。

最近の目先のテクニックを追ったコミュニケーション能力を高める事を目的とした自己啓発本と、コミュニケーション能力は子供並みだったけど天才だった彼を比べながら、「不易流行」という言葉を思い浮かべてしまう。

「不変の真理を知らなければ基礎が確立せず、変化を知らなければ新たな進展がない」、しかも「その本は一つなり」、そんな意味の松尾芭蕉の言葉。

目先を追うより、真理をみつめたい
それを彼から学んだことを今週は伝えて別れの言葉にしよう