「あんさんの口にあうもんやおまへん」

11/15に朝日新聞のオピニオン欄に掲載された京都の茶道家元 千宗守さんの、『ミシュランガイド京都』についてのコメント。
京都の料理屋は昔からのお客さんとのつきあいを大事にしていて、一見(いちげん)さんには「うちのもんなんか、あんさんが召上っても、なーんにもおいしいことおまへん」といって入店を断ってしまうこともあるのだとか。

海から遠い京都ゆえ発達した保存技術、その伝統を受け継いで作られた「大徳寺一久」の「大根漬け」の味、二番だしで取った懐石のみそ汁、贅沢な味に慣れた人にはきっと美味しいとは感じられないだろうと。

文明の尺度で選ばれたミシュランに掲載されたお店。それは京都の文化の中で培われた料理とは異なると彼はいう。

グローバリズムという大きな流れの中で、経済も人の生活も変革を余儀なくされている中、こうした少数の古い文化の理解者だけを顧客として生き抜くのはいっけんリスクのようにも思える。しかしながら、企業にせよ、このような伝統ある老舗にせよ、事業として存続していくためには、そのコアの部分に「文化」、理念といってもいいかも知れない、そういった芯のようなものが必要だと思う。

そんな事を、京都に本社のある任天堂の決算説明会の質疑応答集を読んでいて、思い浮かべた。
http://www.nintendo.co.jp/ir/library/events/091030qa/03.html

iPhonekindlemixi、モバゲー、これら新しいデバイスとゲームの登場で任天堂のビジネスがどう影響を受けるのかとの質問に、トップが自分の言葉で語っている、そこには「たかが花札屋」だった任天堂が世界中の顧客に受け入れられてきた理由の一つが読み取れる。

たかがゲームに、お金をいくら出してもらえるのか、何を楽しいと思ってもらえるのか。
技術が進歩して、電子化して、ネットワークにつながったところで、遊びの原点というのは一緒。花札をしながら勝ち負けを競う、人との感情のやりとりがあって、意外性のある展開があってと。

古い伝統に固執しているように見えながらも、材料の味を引き出すことにこだわり続け、その味を理解できる人にしか提供しないという老舗の京料理。自分たちの拠って立つところを見失わない任天堂。どちらも京都という土地柄が生み出した日本を代表する文化だといえる。