働かずにいるのは、なんだか落ち着かないです、っていうから

先回このブログで紹介した小室先生の動画の中で、「欧米人だったら、窓際族になったら喜んじゃうのに、日本人は逆に悲しんでしまうのは、不思議ですね」というコメントが心にひっかかっていて。

アダムとイブが神様のいいつけを守らずに禁断の実を口にして、その罰として、アダムには労働が、イブには出産という苦役が与えられたのだとか。(それを原罪と呼ぶらしい)。こういう話を神父様から子供の時から聞かされたら、そりゃまぁ、働かずにすむなら、それに越したことはない、そういう気持ちにはなるでしょうね、キリスト教徒は。

振り返って、我等が日本人
「今日は仕事で遅くなちゃった」とか「忙しくて大変」というブログへの深夜の書き込みが、示しているように労働時間の長さをお互いに労わり合う空気はごく普通にあって、これもまた一つの日本教なのかなぁ、たぶん。

*漢字変換して初めて気が付いた、いたわるって労わるってかくんですね、労働の労の字だ。

人って誰しも、第三者から認められてないと、生きがいを見出すのが難しいわけで、「働く」というのはお金を稼ぐという目的だけでなく、社会の中に自分の居場所があることを確認する行為ともいえるのでしょう、日本人にとっては。

だから、キリスト教のように神様に認めていただければ、それでいいのよ、って事になれば、仕事が無かろうが、財産が無かろうが、心の安寧は得られるんだろうと思うわけです。

そうすると、国や会社に頼らず自分の力で生活できるようになりなさいなんて勝間和代さんを初めとする元気な方々はおっしゃるし、例えば彼女の新刊『会社に人生を預けるなリスク・リテラシーを磨く』とか。理屈はその通りでも、宗教無しにコミュニティに頼らずに自立して生きなさいというのは、日本人にとっては、甚だしんどい要求なのでしょうね。

そりゃ無理ってもんかも知れないってねぇ。