日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

水村 美苗

この本の中で萩原朔太郎の詩が紹介されていて

ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背広をきて
きままなる旅にいでてみん。

船旅でしか渡航する手段のなかった昭和初期の詩
仏蘭西でもなく、フランスともちがう、ひらがなの「ふらんす」を使ったところに、なよなよとした頼りなげな朔太郎の詩情が表れていて、文語的表現と相まって英語には翻訳できない、日本独自の文化がそこにはあると著者はいう。

フランスへ行きたいと思うが
フランスはあまりに遠い
せめて新しい背広をきて
ままな旅にでてみよう

たしかに口語体にしてしまうとJRの広告のようで、意味は同じでも心に訴えてくるものがない。なるほど、たしかに、こうして眺めてみると日本語の表記法というのは多彩なもの。

文語体は「書き言葉」そして口語体は「話し言葉」、アルファベットを使う西洋の言葉は「表音主義」なので、書き言葉というのがない。漢字も平仮名も排除してローマ字表記に日本語を変えてしまうという事が戦後検討された事もあったらしい。ローマ字で表記してしまったら、萩原朔太郎の詩も台無しである。

顔文字、絵文字がコミュニケーションの手段とした欠かせなくなってきたこんにち、文語体にこだわることで守るべき文化があるということに同意する人は少ないのかも知れない。僕自身も高校生の頃、古典や漢文を教わる事に意義が見出せなかったが、漱石は好きだし、独自の文化が消えてしまうのは寂しいことではある。

著者の水村氏と梅田望夫さんが「新潮」で対談をしていて、米国で起きているweb2.0が日本でまったく起きていないことに失望感を覚えた梅田さんは、その理由の一つが、日本語が言葉としての表現力が豊かで、日本人が日本語の言語空間だけで生きていく事ができるからなのだと、水村さんの著書を読んで気が付いたと言っていた。

日本にいると分からないが、米国で暮らしたことのあるお二人ならではの気づきなのだろう。

この「日本語が亡びるとき」という水村さんの本、評論文なのだと思うが、話題が飛ぶので、論旨がつかみにくい、それでも、そのどことなく曖昧な表現の文章は読んでいて楽しいし、心地よさがある。この本、力作だと思うし、また気が向いたら日記で取り上げてみたい。