絵文字は方言、日本語は<国語>

先週末、誕生日の祝いを兼ねて、久しぶりに妹達とあって、一回り年下で30代の彼女に言われたのは、メールは末尾にちゃんと顔文字とか絵文字いれないと冷たい印象になるという事。これはやっぱり世代の違いなのだろうけど、なかなかやり慣れない事ではある。それはなんというか、例えていうなら、40過ぎたおっちゃんがワイシャツをズボンの外に出すような気恥ずかしさがあるわけで、たしかに、人からもらうメッセージに♪とか(^-^*)/とか付いているのは微笑ましくはあるが、自分のメッセージにつけるのはチト躊躇ってしまう。

文末に付ける絵文字、なんだか方言に似てるような気がして、
…ずら〜、…だら〜、…だべ〜、…じゃん、だがね、おるだら〜、とかとか
その地域で暮らしている人たちの輪の中に入って話をしていると語尾にこういう音が付いていないと奇異の目で見られてしまう、という思いを子供の頃何度かしたのだが、顔文字もそれと同じで、使っている者同士の連帯感の証なのかもしれない。

方言というのはいってみれば<現地語>で、日本語が<国語>で、英語は<普遍語>なのかなぁ、なんてことを水村美苗さんの『日本語が亡びるとき』というのを読みながら考えていた。

ペリーが来航したのち、南北戦争やら普仏戦争やらがあったために、日本は西欧の侵略を受けることなく、そのわずかな時間の間に、明治維新という革命と急速な近代化をなしとげた。その結果として、侵略を免れて外国語を押し付けられることなく、日本語という国語を整備するに至り、漱石を初めとする近代日本文学の発展を迎えることができたというのがこの本に述べられていたこと。

たしかに、それはキリスト教国となり英語が準国語的使われ方をしているフィリピンと比べてみても、日本においては日本語という国語が近代化の過程の中で、意思疎通に不自由ないどころか豊かな表現力を兼ね備えた言葉として発展した事は奇跡といえる、という本書の主張は正しそうである。

ノーベル賞を受賞した益川教授は日本語で講演できないなら、ノーベル賞は辞退すると宣言して、今週かれはストックホルムで異例の日本語による受賞講演をやりとげご満悦の様子であったとか。論文は日本語でしか書いたことがないと言っていたので、そりゃ、嘘だろう、ありえないと思っていたら、やっぱり、そのお弟子さんがちゃんと英訳して投稿していたのだとか。

「書かれるべき言葉」としての日本文学はすでに亡びつつあって、インターネットの時代、<普遍語>で書かれた英語にのみ真実がある、そういう時代にはなって欲しくないと著者は語っている、そりゃ、僕だって、日本語が亡くなってしまったら、はてなの日記だって、こんなに、さらさら、キーボードちゃかちゃかと書けないので、そりゃ困ったなぁと思っている。

インターネットは文明の進化をもたらすとしても、文化の深化はもたらさないと言う事だとしたら、いささか寂しいことではある