書評 『痛快!憲法学』 最終章

/// < 痛快!憲法学 「第十三章 憲法はよみがえるか」 より >
7/30からの続き

  • あらすじ

・ 戦前日本のデモクラシーは軍部の台頭で滅んだが、戦後は軍部に替わり官僚が独裁者となった。バブル経済をつぶすため、法律にも基づかない「総量規制」という大蔵エリートの通達により、経済は今なお立ち直れないダメージを受けた。

・ 民主主義と資本主義の勝利を信じて疑わないアメリカ人により日本国憲法が作られたのがまちがい。彼らは「憲法の機軸」として伊藤博文が導入した天皇教を排除し、立憲君主国家という枠組みをなくしてしまった。

・デモクラシーにおける平等とは「身分からの平等」の事。戦後、日本の教育現場では「みんな同じでなければならない」という民主主義では考えられない思想が支配してしまったため、「機会の平等」を「結果の平等」と誤解されるようになった。「放埓」と「自由」とは違う。自由と平等は権力との戦いを経て勝ち取るもの。民主主義とは国家権力との戦い。→自由と平等の定義

明治維新以来信じてきた「天皇教」という機軸を失った日本はアノミー社会(権威というガイドラインを失った社会)になった。 「勉強をするのは正しい」と子供に言うのはモラルだが、「勉強すれば儲かる」は損得勘定にすぎない。

  • 感想

憲法とはそもそも何だろうという疑問から読み始めた小室直樹著『痛快!憲法学』、ようやくこれで読了。
この本を読むまでは憲法というのは国民がまもるべき規則の大元みたいなものかなと思っていた。だが、歴史的には国家という統治機構が暴走しないように縛り付けておくための決まりと理解するのが正しいようだ。

日本語では『国』と言ったときに何を指すのか?
細長い国土
田んぼのあるふるさと
日本語を話し常識を共有する人達の集まり
日本政府、与党自民党、官僚
日本民族

なんだかとてもグレーである。だから、国家を縛る規則といわれてもピンと来ないのかもしれない。

この本には、ヨーロッパで生まれた資本主義と民主主義とはキリスト教を土台として生まれてきたと書いてあった。だから、明治維新封建社会から産業革命も経ずに一気に資本主義社会に日本を変貌させるためには「天皇教」という西欧のキリスト教に替わる概念を伊藤博文が取り入れる必要があったと。戦後、天皇が象徴となってしまったことで平等という言葉が「結果の平等」を指すと誤解されるようになってしまった。

今年よくマスコミで取り上げられた「格差」というキーワード
戦後の平等教育に対するゆり戻しなのかも知れない。