雑談もひとつの力と認められる昨今

「超一流の雑談力」とかって本の広告が車窓に貼ってあって、埼玉の北の方で起きた事故の影響で混雑し、身動きもできない、横浜から都心へ向かう通勤電車の中では、片手でスマホをあやつる事もままならず、雑談力とはなんぞや?と思考する事くらいしか出来ることは無かった。

雑談がいつの頃から、ちから、等とたいそうな呼ばれ方をするようになったのか
そもそも、雑談が一流(笑)?
目的も無くダラダラと会話をするのに一流も二流も無いと思うのだが

ネットの普及で四六時中、写真やつぶやきやらの交換をひっきりなしにやっているのに、面と向かうと話題がない、雑談って苦手だなと感じる人が多いから、この手の本が売れるのだろう

その車窓の広告からの抜粋

 声の高さはファかソ
 0.5秒溜めると話聞いてもらえる
 なぜですか?と聞いてはいけない
 人をつかむのは雑学ではなく使える知識
 そうですね、なるほどは、評価を下げる相槌

などなど

声の高さ、というか心地よい声というのはあるもの
親しい間柄なら、ちょっとした挨拶だけでも心情は伝わってくるし、高い低いはどちらでもいいけど、ぼそぼそと呟かれるよりは張りのある声の方がこちらも元気になってくる

溜めて話す、これも効果ありだと思う
適当に相槌打つより、しばし黙考、ちゃんと考えてくれているのだなと誠意が伝わってくる

なるほど、という言葉を連発する人がいて、う〜ん、なんだか、こいつ、適当にこちらをおだてて置こう感、満載だなと思う事があった

この本が狙う読者層は、雑談力を上げて営業成績を上げよう、とか、円滑に社会生活を営みつつ、実利を得たい通勤客向け

でも、雑談を楽しむのなら、実利を離れ、ただ交わす言葉の心地よさに浸る、その方がずっと心地良い

夫婦、兄弟、親子、友人
損得とは無縁のこれらの人間関係で、どれだけ雑談を交わす事ができるのか?

雑談が続くというのはお互い相手への関心が続いている事が土台になっているし、そもそも同居する夫婦の間で雑談が皆無だったら、なんとも味気ない

雑談の中で、どこまで自分を語るのかは、相手への信頼の結果だし、別れて、また会いたくなるかは楽しく雑談が出来るかどうかにもよっている

コミュニケーション能力の必要性は最近よく語られているけれど、まずは雑談力から磨こうよ

雑談力というキーワードが流行るのは、そんな背景があるのだろう