続編、読後感想文「芥川賞はなぜ村上春樹に与えられなかった」

この問いに対する答え、実はうまく読み取れなかった

ただ、漱石をはじめ、明治維新以降の近代化の過程で、日本が「父」の存在をどうテーマとして扱うか、それが小説にとっての主要なテーマであった、という事はなんとなく分かった。

「父」というのは言うまでもなく、ペリー来航の時に始まるアメリカ、のこと。

石原新太郎は「太陽の季節」の中で、負け戦ににくじけた日本の父となるべき若者の姿を描き、村上龍は「限りなく透明に近いブルー」の中で、福生の米軍住宅で麻薬と性に溺れる若者を描いたという。

いづれにせよ、そこにはアメリカの色が濃く反映されていて、それに対して、村上春樹の「風の歌を聴け」はまるで米国小説家の翻訳本のような構成で、そのことが返って芥川賞の選考に携わる人たちにとっては戸惑いで、云々カンヌンと、どうも、うまく自分には理解できなかった。

まぁ、その芥川賞の話はそばに置いておくとして、この本は、かなり面白い。

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走れメロス」は誰でも知っている、というか、中学の教科書に毎度載っているので、教材が同じだと教える立場の教師にとって負担が少ないから、というのも理由のひとつらしいが、なぜ、この小説にみなが感動するか、という謎解きがおもしろかった。

政治もわからぬメロスが、突然怒りだして暴君(王)の元へ乗り込み、所持していた短剣が見つかって、処刑されそうになり、妹の結婚式に出たいからって、ずいぶんご無沙汰していた友人のセリヌンティウスを身代わりにして40km離れた村へ向かう。結婚式に参列後、泥酔して時間が経ち、走りながらあれもこれも蹴散らしていく姿は、なんとなく覚えているけど、その身勝手な正義感ぶりとかは、たとえて言えばジャイアン

走れメロス」はジャイアンを主人公にしたネコ型ロボットの出てこない「ドラえもん」。
たしかに、そう思って読んでみると、違うメロス像が読み取れそうだ。(詳しくは青空文庫でどうぞ。)
セリヌンティウスはもしかしたらノビタなのかも知れない。

そして、なぜこの小説が感動ものなのかといったら、「夕陽」が人々の心を揺さぶるから、ということだ。

砂場で遊ぶ子供達は夕陽とともに親に迎えられる、そんな郷愁を感じさせるのが夕陽の魅力。「三丁目の夕日」に代表される昭和ノスタルジーの物語ともだぶる。

昼間学校というパブリックなコミュニティで過ごし、夕餉を親とともにプライベートな空間で暮らす、明治維新以降の近代化により生まれた学校というパブリックな空間。その狭間に夕陽がある。

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近代国家における教育の役割とは相互にコミュニケーションのとれる均質な労働力を供給していく事。国語教育の目的は生徒の感受性を伸ばすため、にはあらず。

という解説もなかなか面白くって、たしかに、江戸時代の家内制手工業あるいは、農民にとって、労働力たる子供を学校に昼間縛られるのは、マイナスでしかない。だからこそ、教育は義務であり、教育勅語が必要であり、学校には明治天皇肖像画が必要だったわけだろう。

そう解説されると橋本知事の教育についての考え方はしごく真っ当な主張に思える。

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というような、ここに挙げた事例だけでなく、日本の近代とは何か、それを教育、新聞等マスコミ、小説、そういったメディアの在り方にわたる様々な示唆に富む、事例を網羅しているという点で、この本にはかなりハマった。

村上春樹」というキャッチーなタイトルにひかれて手にしただけだったが、満足の一冊

僕がサブタイトルつけるなら、近代化におけるメディアの役割、かな