そつの無い大人ってツマンナイね 

最近参加したセミナーで休憩時間に講師(男性)の方に名刺を渡しながらご挨拶をして、でも明らかにこちらの言葉には関心を持ってもらえなかった。その後、会場からの「いったい、その情熱はどこから来るんですか?」という女性からの質問には身を乗り出して耳を傾けていた講師の姿を見て、この差は何だろう?とふと疑問が。

アルバイトから社長になったという波乱万丈の人生を語ったその講師。講師の方は子供の頃落ち着きの無い児童で、ADHDだったとご本人も言っていたけど、たぶん、大人になってからも、それは変わっていないんじゃないかと、察せられた。ADHDとか自閉症とかの人って、物事を婉曲に話されると言葉が届かない。

大人になると、当たり障りの無い挨拶を初対面の人にはとりあえずしとく、みたいな技術を身につけていてしまって、きっと僕の挨拶も、そんな中身の無い、上っ面の言葉だったから、きっと彼に届かなかったのかなと省みた。

それに対して、会場の女性の質問は立て板に水とは言えないほど、たどたどしかったけど、本当に知りたいのよ、という気持ちがあふれ出ている聞きかただった。
どうも、男達は社会性という名の鎧を一生懸命に磨いて、気が付いたら、鎧の脱ぎ方も忘れてしまっているのに、その女性は自分の心の中にある気持ちに素直に発露したから、講師の心に届いたのかな、と思った。


その後、同じ会に参加していた女性から挨拶をいただいて、「1月にこの会でお会いして、箱根駅伝の話をされてましたよね」と訊かれ、すぐには思い出せず、名前と顔を思い出すのに、しばし時間がかかった。
あの時の駅伝の話も、講師から出た課題に対して、僕と彼女がペアで答えを考える事になっていて、1月だったからタイムリーに駅伝と絡めながら僕が即答したような気がするけど。なんだっけ、その自分で考えた答えが、今は思い出せない。

社会人を長くやっていると、課題に対してそつなく、それなりの答えを見つける事に慣れてしまうものなのだが、そつの無い答えというのは、所詮は数ヶ月も経つと記憶から消え去るものなのだろうか。と思うと、なんだか生きるという事を、ただコナシテイルだけのように思えて残念だ。

世の中には、そつのないプレゼンテーションスキルを磨く書物があふれているけど、先日の講師のプレゼンはそういうしゃべりのノウハウがあったわけではない。使っていたのはパワーポイントだったけど、一枚のスライドで10分以上しゃべっていたし、その資料はあくまで自分の記憶を引き出すためのキーワードが書かれていただけ、大げさな動画も、彩色にとんだ人目を引く資料もなく、ただただ経験というなの真実を言葉にして語っていた。ときおり、その真実に裏打ちされた感情を交えながら。

僕らくらいの年代になると、立場的にも、取締役だったり、社長だったりと、それなりの社会的地位(と一般には言われる)になっている友人もいて、なにか挨拶を、と頼まれた時に、当たり障りの無い、言葉を語れるスキルを身につけている人も多い。しかし、披露宴の主賓の挨拶も、そうだけど、偉い人の挨拶って心に残らない。

そつの無い大人ってつまんないな、と思う。
会話をする時にも、相手の言葉をひとつひとつ確かめながら、自分の考えを整理して言葉にする、ありきたりの言葉ですませちゃわないで、自分の言葉で語る。

そういう姿って魅力的だと思うし、「生きる」という事に対して真摯なのだと思う。