姜 尚中と漱石と、なぜか大前研一

姜 尚中(カンサンジュン)の『悩む力』を読んでいて、夏目漱石が小説にしていた主人公達の悩み、これは現代人にも通じる、という意見に興味を覚えて、漱石の著書をパラパラとめくっている。

漱石自身は江戸時代の終わりにうまれたので、明治維新を成し遂げた世代よりは後の世代で、維新の熱気というものを肌で知っているわけではない。これはちょうど高度成長期からバブルをを経て、そのバブルの時代を知らない世代の人達の今の心境と似通っているとカンサンジュンは指摘する。

漱石というと、『坊ちゃん』とか『吾輩は猫である』とかは良く知られているが、『こころ』や『明暗』のような陰鬱な重たい小説の方が神経衰弱に悩まされた彼の代表作として味がある、と思う。カンさん自身も30歳でドイツに留学したときに「こころ」を読んで強い感銘を受けたと書いていた。

『こころ』という小説はネットでも読むことができるが、それにしても一節一節の内容が濃い、今風にいうと山田太一のドラマみないなものか、こんな重たいテーマを明治の頃の人達は好んで読んでいたのだろうか。遺産相続をめぐる親族の裏切り、失恋を苦に自殺した親友、老衰した父親、生きる上での悩みはいつの時代も変わらない、時代の空気は今と似通っていたのかもしれない。

『悩む力』によれば、現代はグローバリズムにより米国の自由主義経済が跋扈して格差が広がり、そのことが多くの人を不安におとしいれているそうだ。グローバリズムは最近はすっかり悪者扱い。


最近、参加したフォーラムで大前研一氏の講演を聞く機会があって、その中で紹介されていた、2055年の日本の人口分布というのがかなりショッキング。
http://www.ipss.go.jp/syoushika/seisaku/html/111a2.htm
各年代ごとの人口分布で最も多いのが、81歳〜84歳。そう、今三十代後半の団塊ジュニアの皆様がた。若者の数が今と比べ圧倒的に少ないので、老後に介護や老人ホームに入ったとしても、面倒をみてくれる労働量がまず確保できない。

解決手段は外国人労働者受け入れ、移民受け入れしかないだろう。
昨年フィリピンから介護士を受け入れようとして日本語の壁が厚く採用に至らなかったというニュースがあったけど、2055年になったら、言葉が通じない、なんて贅沢は言っていられなくなるのかも。介護される老人の側が英語なり、もしかしたら中国語でヘルパーさんにお願いしている時代の訪れを誰が否定できようか。

そんな時代を予測してしまうと、グローバリズムの弊害で格差が広がるとか、治安が悪くなるとか、昔を懐かしがっていられるのも今のうちかもという気がしてくる。

予算案が今日衆院を通過して来年度の予算の成立のめどがついたというけど、過去最悪の44兆円の国債発行、税収を国債発行額が上回るのは戦後初めてなのだとか。

少子化のうえに借金漬け、末代へのツケ、本当に払えるのだろうか。