宗教以外に生きづらさから抜け出す道はあるのだろうか?

「自分探し」という言葉がある。
どこかにあるはずの自分を追い求める、そんな意味合いに使われる言葉。自分を知るにはどうするか、あなたの顔をどうやってみるのかを思い出してみればいい。それは鏡を使うしかない。

他者とかかわるという事は、「鏡」を覗き込む事と一緒。鏡も見ないで、自分がみつかるはずはなく、人とつながって、自分の言葉で語って、その言葉を相手がどう理解してくれるのか、どう返してくれるのか。そのプロセスを経てでしか、自分はみつからない。

「生きづらさ」という言葉がある。
その理由は経済格差だけでは説明ができるわけではない。心の渇きは満たす事ができるのは宗教だけじゃないのかなぁ。医療サービスを受けられない人が全米で2000万人だっただろうか。あれだけの経済格差があっても希望を失わずにいられるのは宗教があるからだろう。サブプライムローンが返せなくなり、警官に今いる住居から追い出されても、なお希望を失わずにすむ。救えるのは宗教だけ。

自分らしさや個性という言葉のひとり歩きは危険だ。
中学生くらいまでは先生や親から価値観を押し付けられる、それ位でちょうどいい。押し付けられた価値観に反発をする、それが成長の過程なわけだから。押し付けるべき価値観を先生が持たないとすれば、やはりそこには宗教が必要だと思う。

個性を煽られるこどもたち 土井隆義 (朝日新聞から抜粋)


欧州や米国には社会的階級や一神教という絶対的な価値がある。日本では 世間の目 だったが、その拘束力が弱まり、自分らしさや個性がもてはやされ、一人歩きするようになった。価値に優劣をつけなくなり、人間環境もフラットと考えるようになった。最近の若者はそういう時代に育った。


本当の意味で自分らしく生きるには他者とのかかわりの中で客観性のある自分を知ることが必要。そういう「自分」を持っていると、違う価値観を持った人と折り合いをつけ、強く生きていける。