『アメリカ素描』 司馬遼太郎

1Q84』にどっぷり浸っていたら、なんだか無性に違う毛色の本が読みたくなって、司馬遼太郎の『アメリカ素描』にはまっている。1985年に司馬遼太郎が初めてアメリカに渡り、その時の見聞記をエッセイとしてまとめたこの本、なんでこんな面白い本を20年間もほったらかしておいたのか。やや後悔。

司馬遼太郎を読むおじさん」たちは村上春樹を読まず、「村上春樹を読むおねいさんたち」は司馬遼太郎を読まないという興味深い非対称からも推察されるのである
とブログに書いたのは内田樹だけど、やっぱり甘いフルーツばっかり食べて夢の世界を彷徨っていると、コッテリとした(?)和食がたまには食べたくなる。

僕が初めて西海岸に行ったのもその頃で、もう見るもの、聞くもの、全てカルチャーショックで、あの時夢描いた「いつかは住みたい」という気持ちはもうすでに失せてしまったものの、読んでいてあの頃アメリカに対して持っていた憧れを思い出した。

以下、『アメリカ素描』からの抜粋
カリフォルニアでは大地の上ではなく、人間はエネルギーの上に乗っているという指摘。
子供の頃から自己を表現することを徹底的に教わってきたために、相手の気持ちを察するという能力が低い米国人の特性。
多様な文化が混合された合衆国であればこそ実現しえた普遍性を持つ文明。
法律が全ての概念の上位に位置して契約により全てを決しようとする法治国家
多民族国家といはいえ、WASPが支配するその実態

書き出したら止まらないのだが、あえて一つに絞るとすれば「ウォール街」についての記述かな。
ニューヨークで野村證券副社長を後に務めた寺沢芳男氏との対談が面白い。

アメリカでは投資的な証券市場参加者は10パーセントぐらいしかいません。あとの90%は投機家です。」
「投機家である会社は、先物に数学的な体系をあたえる能力をもった頭脳を、年棒何億円かで契約します。その専門家に決してソンをしないシステムを作ってもらい、コンピュータで運用すんです。」

という話を寺沢氏から聞かされた司馬さんは、

「資本主義というのは、モノを作ってそれをカネにするための制度であるのに、農業と高度技術産業はべつとして、モノを次第につくらなくなっているアメリカが、カネという数理化されたものだけで、将来、それだけで儲けてゆくことになると、どうなるのだろう。滅びるのではないか、という不安がつきまとった。」
と記している。

その予言が20年の歳月を経て、サブプライムローン問題として米国に起こり、世界経済に大きな打撃を与えた。と言い切ってしまうのは、ちと過大評価しすぎか。

坂の上の雲』で初めて司馬遼太郎の名前を知ったのは十数年前のことだろうか。だが、この作家は小説だけでなく多くのエッセイも残している。『この国のかたち』『八人との対話』、これらの本も面白そうなので、印象に残ったらおいおい感想を書いてみたいと思っている。

数年単位の目先のことに右往左往する経済評論家のビジネス本よりは、司馬さんのような歴史家でもある作家の本の方が歳月というフィルターを経ても色褪せず読み応えがある気がしている。