ノーベル物理学賞受賞と日本語

ノーベル物理学賞の受賞を聞いた益川敏英氏が「大してうれしくない」と言ったとか、その気持ちは理解できる。「クォーク」の拡張性を予言して、それが実験で確認されて自分達の理論が実証された時の感激に比べれば、ノーベル賞受賞という世俗的な喜びはとるにたらないものだろうなと思う。
それに英語が嫌いでパスポートも持っていないのだとか。

そこからは、物理が好きで好きで、考える事が三度の飯より好きな、子供のような好奇心を持ち続けた、人間味のある、ちょっと浮世離れした研究者の姿が浮かび上がってくる。

あるブログからのコピペだし、確固たる根拠があるわけではないのだが、「物理や科学の最先端の話ができる言語は、世界中で英語と日本語だけ」なんだそうな。ちなみに、お隣韓国の大学の授業で使う教材は英語の原書で物理や科学を教えているらしい。どうりで、国際学会で韓国人のプレゼンターがネイティブ並みに受け答えをそつなくこなすわけだ。

国際人養成のために英語の早期教育に力をいれよう、なんていう話もあるけど、個人的には日本語を使った思考力と読解力と表現力、これをおろそかにしてまで、英語に力をいれる必要はなかろうと思っている。たとえ下手な英語でも相手(外国人)が聞きたいと思えるだけの内容があれば、耳を傾けてもらえるし、ヒアリング能力は訓練が無いと身に付かないけど、発音が下手なことあまり気にする必要はない。

益川敏英氏は英語が苦手とはいってもノーベル賞を受賞するレベルの研究者だから、英語の論文を読んでいるのは当たり前の話で、日常会話に不自由しない程度には使いこなしているのであろう。おそらくは、英語で議論をする時には、頭の中で日本語で思考するのと英語に翻訳するのとを同時にやらなきゃならないので、それが嫌、それを英語が苦手と表現したんじゃないのかな。

結局、日本語というのはあいまいな表現が多くて論理的じゃないなんていわれるけど、理論物理のような想像力を駆使しつつ直感的なひらめきで真理を発見する学問にも向いているんじゃないのかな。日本語いらない、英語で十分、なんて暴言をいう人がいるけど、日本語でなければ考えられないし、伝えきれない、日記も書けない、日本語を使っているという事が経済の分野ではハンディになるとしても、文化や学問の分野では日本語を使っていることはプラスになっているではないか、と今回のノーベル物理学賞を日本人が独占した事で思った。