ノーベル文学賞って、なに?

先週ボブ・ディランノーベル文学賞が話題に、と同時に、ノミネートNo.1だった村上春樹氏が取れなかった事を残念がる声が多かったと。

受賞者を決めている委員達は平均年齢70近い有識者達なのだとか。かつて文学賞を取った作家達は、その生い立ちの苦労話や作品のテーマのリベラリズムやら政治的な要素を持っている人達だったのだとか。村上作品からは政治的な匂いは感じられない。彼の作品に魅入られる読者は、心の奥底に潜む真理、国境も宗教も越えた普遍性、それらを作品から感じ取っているのだそうだ。

彼の作品はある種麻薬のような中毒性がある気がする。ハルキストと呼ばれる人達は、心に闇を抱えた患者みたいなものか。しかし、物語を通じて自分の心の闇と向き合える人は健全だともいえる。

個人的には村上春樹が受賞する事はあまり嬉しくはない。仮に受賞したとしたら、ボブ・ディランのようにコメントもせず、できれば受賞したお金を受け取らずに寄付にでも回してくれたらいいのになと思う。大勢の人達に評価される作家であるより、自分自身の作品を乗り越えて新たな作品を世に問うことの方がはるかに難しいことだろうし、村上氏にはこれからも書き続けてほしいと願うから

自分にとっては村上作品を読むのも映画を見るのも漫画をみるのも、いづれもエンターテイメントの一つに過ぎない。高邁な理想、そういうものとは縁遠い大衆のひとりでしかない自分。そんな自分をワクワクさせてくれたら、それでいい

彼は作品の題材をどこから探してくるのだろう?

例えば、芥川賞をとった「コンビニ人間」。
話の題材としてコンビニの風景は身近だし、登場人物も、いかにもいそうな不思議ちゃん、という印象で楽しく読ませてもらった。でもコンビニで働く作家自身の体験がベースになっている事は間違いなく、そういう意味で私小説というのは、いづれネタが切れて壁にぶつかる気がする。

村上春樹の場合、オウム事件の「アンダーグランド」のようなインタビュー記事や「少年カフカ」のような読者との対話を通じて、様々人々の体験を知り感じ、そこから新しい物語の芽を育てていると思う

自分の体験より他人への理解
それこそが作品に新たなテーマを取り入れる素地なのだろう

ノルウエイの森から比喩的表現を取り払うと分量が三分の一位になって読みやすくなるそうだ。面白いコメントだと思った。

でも、比喩的表現のできる人との会話は楽しいし、話をふくらませる事が会話の盛り上がりには欠かせないと思うのだけど、どうかな。

会話の中で比喩を使うのは、相手とどこで共感できるのか、物事の持つ多面性のどこにお互いが共通の興味を見いだせるのか、それを探っているからなんじゃなかろうか

文学というローカルな言語でしか表現しえないクリエイティブなコンテンツに対して普遍的な価値基準で賞を与えるという事自体無理がある気がしていて、そういう意味では音楽のような言葉の持つ意味に必ずしも縛られずにすむ表現方法にノーベル賞が与えられた事は、それはそれで理にかなっているのかも知れない。