朝、蝉に蹴りいれたら、夜には臨床宗教師なんて話を聞かされて

通勤の途上、道の真ん中に横たわっている蝉にけりを入れてみた。目覚めて羽ばたくかと思いきや、道の端にころがったまま
すでにその生を終えていた蝉、あとは群がる蟻達の餌となり、この地から姿が消えるのだろう。
幼虫として7年、羽化して地上でメスを求めて鳴き、子孫を残して息絶えるまで二週間の蝉の一生。はかなくはあるけど、最後に生きてきた証を残し、生きてきた意味を確認し、響き渡る鳴き声と共に人々の記憶に残ってゆく。

そんな生き物の一生について思いをはせていた

知人の父親が認知症で、たまに帰郷して顔を合わせても息子と理解できず、途絶えてしまった記憶を寂しく思うと、彼は語っていた。認知症の父は食べた事すら忘れてしうため、冷蔵庫にある食品やら飲み物を四六時中口にしてしまい、体調をくずすのだとか。また、ある時には一人で外出してしまい家に帰れなくなり、親切な人の声がけで救われた事もあったのだとか。

いづれは施設に入らざるを得なくて、その手続を進めているのだよと彼は語った。

子どもたちに看取られて人生を終える事がかつては理想のように言われたけど、核家族化が進んだ今、必ずしも自宅で末期を迎えるとは限らず、施設や病院だったり、結局の所、死に向かう数年間は一人で生きる終末が自分にも待っているのかなとも思う。

先ほどふとチャンネルを合わせたら「穏やかな死を迎えたい 医療と宗教 新たな試み」なんてのがNHKのクロ現でやっていた。

NHK壇蜜さん?というのもちょっと驚きだけど、葬儀屋で働いていた彼女の語る死に面した人々についての語り口は優しくて、臨床宗教師の必要性についての取材も心に残る番組だった。

末期がん等死に直面した患者は自分の人生の意味に疑問を持ち答えが見つからず苦しむ、スピリチュアルペインに見舞われるらしい。その時、相談の相手として肉親には言いづらく、医師の役割でもなく、宗教師が傍らに必要なのだという。
死んで全てが無くなってしまうのだろうか?という不安に対して、いや思い出はなくならない、人生の意味は失われないのだよと諭してくれる人、そういう人は確かに必要なのかなと思う。

最後の二週間、ありったけのエネルギーを使いきって一生を終える蝉
老いて、失われゆく記憶と共に、一生を終える人間

若くあれ、健康であれ、と社会は要求するけれども、いつか終える人生の仕舞い方を人々はいづれ尋ねるようになるのだと思う