人は人生の終わりを覚悟した時何を思うのか

心臓の弁を交換するという大手術を受けると父が覚悟を決め家族として立ち会うため仕事を休み、母と妹と共に7時間にわたる手術の経緯を見守った。

術後ICUでの管が刺さり髪の乱れたその姿は言葉にならぬほど衝撃的、このまま麻酔から覚めなかったどうしよう、そんな不安から夜も寝つけぬほど。

翌午前中見舞うと目は冷めていたものの意識は朦朧としていて痰が絡むのかかすれた声は言葉にならない。主治医からは自力で痰が取り出せるようにならなければ、首に器具を取り付けると脅されたけど、夕方の再訪時には会話が交わせる程まで回復していた。

そのまた翌日、午後には歩行訓練ができますよとの言葉に安堵し帰路につく。

この手術の前に父は母に20年以上も書き続けた日記の処分を依頼。様々な歴史が刻まれていたかも知れぬその記録を捨ててしまった。

人は自分の死を覚悟した時、何を思うのだろう?
何を残し、後世に伝え、人にどう記憶されたいと望むのか

この日記は人に読まれる事を想定して書いている
書きながら他人の視線や理解を想定しいるから、自分の考えていることを客観的にとらえる事に役だっている

これがもし他人に絶対に見せないと決めて書いたら、脈絡のない心の整理のつかないままの雑文に成り果てるに違いない

文章は人の目に触れてこそ価値がある、と思う

人は人と繋がることで自分を確認できる
自分の世界に閉じこもっていては深い深い闇の底に沈んだまま、自分の姿を見定められぬだろう

表現をする事、それは放っておけば風化してしまう自我を再構築する事を意識的に行うことなのかも知れない

肉体が滅びた後の「意識」を別の個体に転送し生きながらえる事ができないか。というのが映画「チャッピー」のテーマの一つでもあった

日記というのはその「意識」を言葉という形にした文章の綴りだと思う

日記をブログとしてネットに晒しクラウドに残すことは「意識」を半永久的に後世に残す事になりはしないか

日記を廃棄した父と映画のテーマについて考えながらそんな事を思った