『永遠の0(ゼロ)』と今年の政治風景

小説を読み終えた後、目頭が熱くなったのだが、ストーリを知っているにも関わらず映画でも泣けてしまった「永遠のゼロ」。特攻隊員として命を落とした祖父の物語を孫である姉と弟とが生き残った戦友達を尋ね歩き、亡き祖父の思いを探る物語。

ゼロ戦の戦闘員でありながら、生きて妻と子の元に帰りたい、そう願い続けながら操縦桿を握っていた敏腕パイロットであった祖父。戦友達は、ある人は祖父を臆病者と呼び、またある人は恩人として思い出を語る。

真珠湾、ミッドウエー、ラバウル、そして最後は特攻隊の鹿屋基地と場所を移し、開戦当時世界一の性能と力量を誇ったゼロ戦と搭乗員だったのに、最後には学徒動員により特攻隊員を徴集せねばならなくなった日本。

あの時代、戦争に身を投じた人たちは国家のためという抽象的な概念ではなく、家族や仲間のために命を懸けたのだという事が伝わってくる映画。

原作者の百田尚樹氏と安倍首相の対談集が書店に並んでいて、彼は首相に靖国神社への参拝を強く勧めたと書いてあった。

なぜ、明治維新の時、日本が近代国家となりうるために、天皇制が必要だったのか、という事を6年半前のこの日記で書いた。靖国神社に参拝するという事の意味も近代国家とは何か?という議論を経ないとただしく理解できないように思う。

人はなぜ働かなければならないのか?

「空気」に敗れた「民主主義」

この日記を書いた当時、首相は安倍さんだった。今年彼は憲法改正へと向けて政治のかじ取りを進めていくのだろう。

「尊崇の念」という聞きなれぬ言葉で参拝についての理解を近隣諸国に求めようとする首相。だが、近隣諸国だけでなく、米国にとっても戦犯が祀られている神社を拝む事は受け入れがたいようだ。

沖縄の米軍基地を持ち出すまでもなく、横浜に住む者にとって、根岸や座間や厚木の広大な在日米軍住宅と基地をGoogle mapで見てみれば、ここに敗戦国日本が未だ占領されている姿は明らかだ。

憲法改正、自主独立、これらの言葉が景気浮上の気分と共に、今年の日本の空気を覆っていくのだろうか。

戦争責任が誰にあったのかを曖昧にしたまま、みんなで平和な世界を築いて行きましょうよ、という言葉は国際的に受け入れられうるのか。

昨年末の首相の靖国神社参拝を機に、さまざまな思いが巡る