大神社展 vs ラファエロ展 神々の在りよう
先日、学園祭を覗きに妻と出かけたついでに、少し足を延ばして上野の東京国立博物館「国宝 大神社展」を見てきた
上野の駅前のポスターに目を止めた彼女が「ラフェエロ展」もやっているのねと訊ねてきたのだけど、もう見たよ、とはちょっと言いずらかった。独りで行ったわけではなかったし(笑)
今年は伊勢神宮の式年遷宮の年だからなのか、あるいはタカ派の安倍政権だからなのか、日本という国家の成り立ちについて議論される事が多くなりそうだ
この「国宝 大神社展」というのを見てみると、日本人にとっての「神」って死んだ人が崇められて神になったり、山や海に神がいたりと、なんでもあり
それと比べて、ルネサンスを代表する画家ラファエロの描いたキリスト教における「神」はもちろん一人だけ。聖書を再現した絵画、キリストを抱くマリアの姿の聖母子像、いづれも素晴らしいけど、ヴァチカンの宮廷画家として彼が描いたのは、唯一の神
日本人の宗教観の神 = 摩訶不思議なパワーの源、自然への畏怖、亡くなった人への思慕
キリスト教の神 = 創造主(人間達を作ったオーナー)
きっと、そういう事なんではないかいなと、この二つの展覧会を見終えて思えてきた
人間を創造した「神」の存在を信じるか否か、というのは極めて大きな違い
数学や物理学のような、宇宙や物質の成り立ちの法則を見つけ出そうなんて発想は「創造主」の存在を前提としないと浮かんでこない
そういう意味で近代化や文明の発展なんているのは一神教を土台としたメンタリティが無いと起こりえなかったんじゃなかろうか
日本も江戸時代のままでいたら、文明の発展はきっとなかったはず。文化の成熟はあったとは思うけど
「神」を巡る日本人と西洋人の宗教観の相違、上野の森をあとにしながら、心に残った展覧会でした
どちらも明日日曜日が最終日