故郷の桜の記憶って、誰にでもあるのかも

先週、日曜日の昼間、ふとチャンネルを合わせた日曜美術館で、石巻出身の彫刻家高橋英吉氏の生涯とその作品が紹介されていた。

海の三部作と名付けられた木彫りの彫刻は、漁船に乗り込み描いた漁師たちのスケッチが元になっていて、海に生きる男たちの凛々しい肉体と魂を伝えている。

徴兵され戦場で命を落とし、31歳にしてその才能を開花させる機会が奪われてしまったのは、実に残念だが、彼の作品は、大震災の津波に街を奪われた石巻の人達にとって、大事な心の支えになっているとか。

漁師にとって海の幸をもたらす大海原と命を奪った津波と、今は穏やかな石巻の海を見ながら、そこに住む人たちは何を思うのだろうか。

津波に襲われる所に住むより都会の方が便利なのに、と人は思うかも知れないけど、そこで暮らしてきた「ふるさと」としての土地、たとえ、危険があるとしても、「ふるさと」で暮らしたいと願うのは、自然な気持ちなのではないか。

誰しも「ふるさと」と呼べる離れがたい場所というのは、きっとある。

中高から学生時代を都心で過ごしていたら、やはり、都会での暮らしが心地良いだろうし、故郷で母親が暮らしていたら、母から贈られてくる季節の便りは都会で暮らす心の支えとなるだろう。

親の母校に自分も通い、仕事や友人がその住まいに近ければ、やはり今の場所が落ち着くと思うし、幼少の頃にあちらこちらと住む経験をしたのならば、各地の方言が幼い頃の記憶と結びついて、古い友人達との再会はとても楽しいものとなるだろう。

自分が生きた証しとしての記憶、その記憶と結びついた土地としての「ふるさと」

記憶のひとつひとつが、その人の人生を作っていて、街や季節の風景が記憶を呼び起こし、人は記憶をたどって、今の自分を再確認しているのだと思う

満開の桜を観ていて、母校の土手の桜の下でお弁当を食べていたのをふと思い出した。

この季節、ふるさとの桜に思いをはせる人も、きっと多いのではなからろうか