本名も所詮は社会を渡り歩くためのハンドルネーム

SNSを始める時に誰もがハンドルネームを何にしようかと頭をひねる
本名とは別の呼び名を使う事で、リアルの自分、社会のしがらみから少し解き放たれた自分をSNSでは伝え易くなるもの

ハンドルネームなら自由に変えられるのに、本名というのは戸籍に縛られていて簡単には変えられえない。

自分の呼び名なのに自分では変えられない
なんとも不自由な、それはなぜか?

本名を勝手に変えられたら、社会にとっていろいろと不都合があるから、変えてはいけない事に、法律で決まっている(たぶん)。

江戸時代のような近代以前の農民は、XX村の△兵衛と名乗っていて、苗字帯刀を許されていたのは武士だけだった。そもそも、庄屋から見れば労働力でしかない農民は、別にどこかに移動するわけじゃなし、年貢さえ納めてくれりゃそれでよし。名前なんざ名乗ってもらわんでも結構、という存在だった。

戸籍というのは社会が、具体的に言えば国家、が徴税の対象の国民を管理する手段をゆるぎなき物にするための決まりで、戸籍に書かれた本名を勝手に変えられえては困るのは、そういう理由なのだろう。

本名で語る言葉は、社会的な責任とか立場とか、様々な縛りを自ずから課していて、窮屈だ

社会に出た頃、自分の気持ちを言葉で表現する事が苦手だったのに、長年社会人をやっていると、そこそこ相手に通用する表現方法が身についてくる。でも、そこで身につけた何かは、社会に適応している衣のような物で、それが本心か、それがリアルか、と問われると、もしかしたら違うのかも、と思えてくる。

音楽や美術が、ときに衝撃的に自分の心を揺さぶるのは、しがらみから解き放たれた自分の感情をそこに見出すからじゃないのかな

何が好きで、何処が心地が良くて、どの味が美味しくて、誰が好きで…
自分の心に素直に従う事をためらう事はない

本名も所詮はハンドルネームのひとつ、そう割り切ると、いろいろと楽になれるのにね