辺境の地にあって、登るべき坂を探し続ける民、日本人

日本辺境論 (新潮新書)

日本辺境論 (新潮新書)

タイトルからして、梅棹忠夫の『文明の生態史観』で論じられいたテーマ、中華という巨大な文明圏があって、その辺境の地に日本という文化が育っていった、を彷彿とさせるし、内田氏自身、梅棹先生のお話の繰り返しだよ、だから、この書にはオリジナリティは無いのだよと、序章で述べている。
http://d.hatena.ne.jp/kin3hama/20080818

内田さんの本は章によって、話があっちに飛びこっちに飛びする。いったいこの人は何がいいたいのか、読み手にとってはつかみにくい。論文では最初のアブストラクトと呼ばれる概要を書くのが普通、でもね、そういうのって欧米式の文章の書き方で、日本の古典はそうなっていんですよ、と内田氏は説く。

何が書いてあるんだかワカンナイ、でも読むことの楽しさがある、そんな物語のスタイルらしい。授業のシラバスを読んでから科目を選択する、という事に反対している内田教授らしい言葉だ。何を学ぶ事ができるのか、それが分からないから学ぶのだよ、と彼はブログでも書いていた。

「世界標準に準拠してふるまうことはできるが、世界標準を新たに設定することはできない。」(日本辺境論より抜粋)。

まったくもって、そうだと思う。ISO9001だの、ISO19000だの、日本の製造業は競ってい導入したがるし、コンプライアンスだの、 CSRだの、なんとなく横文字でいわれると従った方がいいなかなと信じてしまう。VHSのようなビデオデッキとか、ハイブリッド車とか、形として見えるものを標準化するのは日本企業は得意だが、プロトコルと呼ばれる通信方式の標準化は苦手。無線LANIEEE802.11という名称の米国の規格だし、携帯電話もインターネットも日本発の規格は普及しなかった。いってみれば金融の世界もルールを作った者勝ちなわけで、そこも日本は不得手な分野。

この内田さんの本のなかで日本語の持つ特性についての記述が興味深い。

漢字という表意文字、平仮名という表音文字、それらの文字は脳の別々のパートで処理されているらしい、その並列処理を同時に行う訓練を子供の頃から重ねてきた日本人は識字率が高いし、難読症の患者が少ないのもそのためなのだとか。マンガが日本で花開いたのも、日本語の独自性に依るとか。

話がそれた、話を辺境に位置する日本に戻そう。

そもそも「日本」という言い方は日が昇る国、すなわち中国から見て東にある国、という意味だそうな。自分の国を定義するのに他国の視線を借りてくる、そう、この国は初めっから、金印に記されていた『漢委奴国王』という言葉が示すように、中華の端の地域としてスタートしている。それに平仮名という言葉の意図するところは、漢字が真名であるという事。日本語というのは仮物なんですよ、そういう意味。

オバマ大統領の就任演説で始まった今年。

日本にも二大政党制が定着するのかと期待して投票した国民も多かっただろう、民主党の誕生。あの大統領演説のような立派なスピーチがなぜ日本の総理大臣にはできないのか、それは日本だから。あの演説の中で繰り返し語られたのは、アメリカ人とは何哉、という事。多くの人種が新大陸に渡り、時には奴隷として強制的に。その人々が実現しようとした自由や民主主義とは何だったのか。そうオバマは国民に問いかけていた。

でも私達は、日本人とは何か、とか、そういう根本に立ち返った議論はしてこなかった、そして、これからもしないだろう。そして、その根っ子が見つからないので、いつまでも、「この日本人とは」というテーマの本は出版され続ける。キョロキョロと周囲(外国)を見回しながらでしか、自分たちの国のあり方を確認できない辺境の民、日本人。

坂の上の雲」というドラマが話題になっているけど、登るべき坂がはっきりしている時、日本人はその力を発揮できる。今の時代、さて、どの坂を登るべきなのか?米英型の自由主義型資本主義社会なのか、北欧型の厚い福祉の修正社会主義なのか、ひとつの坂を登り切る前に下って、また別の坂を登り始めた日本。今年の日本の政治を総括すると、そんなところかな。

なんだか、書いてたらつい長くなった。お読みいただき、ありがとう。

お正月の空いた時間、餅でも食べながら、コタツにでもあたって、読みたい本を探しているのなら、『日本辺境論』、お勧めです。

内田先生のブログはこちら
http://blog.tatsuru.com/